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2004.09.18 Sat
第一章 帰国-4
「今日は、どうしたんだ?」

竜海はマグカップを香織に差し出しながら聞いた。

「別に、懐かしいと思ったから。どうしてるかと思って」
「笑いに来たのか?聞いたんだろ、執行さんに」

悪意のある竜海の言葉に香織は少し驚いていた。
執行は何も香織に伝えなかったことをどのように竜海に伝えればいいのか考えあぐねていた。

「そんな、こと。ただ、懐かしいと、会いたいと、思ったから、それだけ」
「いい気味だろ、こんなになって、戻ってきて」
「リュウ・・・・。そんな、どうして、私は、ただ」

香織はどんな言葉をつなげていいか分からなかった。
今の竜海にどんな言葉であれば、通じるのか分からなくなって、まっすぐ、竜海の瞳を見ることしかできなかった。
竜海はとても自然に目をそらして、カップの中でゆれている琥珀色の液体に目を移した。

「俺は、ここで何をしてるんだか、よく分からないんだ」
「何があったの?聞いても、いい?」

香織は控えめな問いかけに、竜海はびっくりしたようにビクっと手を揺らした。

「聞いてなかったのか、執行さんに」
「執行さんは貴方が戻ってきた事を教えてくれただけよ。私は、それを聞いて、懐かしくて」

竜海はバツ悪そうに顔を上げて香織を見た。

「そうか」
「執行さんは何も言ってくれなかったの。何か、あったような気がして、なんとなく気になって」
「今は、まだ、話せるところまで、来てないんだよ」

竜海は一言、一言を思い切るようにじっくりと言葉を選んでいた。
香織は聞きたいような、聞きたくないような複雑な気持ちでいた。
初めてリュウの写真を見たときのことを思い出していた。
世界が激動に震えたあの年、リュウは大学を休学して世界のあちこちでカメラを持って行っていた。
彼の目に映る世界の出来事は衝撃的でもあり、またリアルだった。
その頃、バブル後期のまだ浮かれた気分の日本で受験戦争の真っ只中にいた私にとっては
ちっともリアルではなくテレビや新聞の中だけで動いていた出来事だった。
たとえば受験科目に世界史をとっていても現代の動いている歴史とはなんら結びつかない事実だった。

だから、あの日に初めて大学の講堂で見たリュウの写真はそんな私の浮ついたイメージをリアルに変えた。
写真の技術なんてさっぱり分からなかった。
どんな写真に高い評価が与えられるのかちっとも私には分からなかった。
だけど、その写真の前に立った瞬間、鳥肌が立って、背筋が寒くなった。
リアルな世界がそこに近づいてきたように思えた。
自分がこんなところでのほほんと学生をやっていていいのかと自分に問いかけるきっかけと
真面目に勉強しようというきっかけになったことも事実だった。
特段と目的も持たないまま、たまたま要領のよかった自分がなんとなくイメージで大学や学部を選んだ。
政治を選んだのは単純に女性が少ない学部だと聞いていたからだった。
そんな自分が恥ずかしくなったのもその影響だったと思う。
だからその写真を撮った本人と出会ったとき、私はほぼ無条件にリュウに惹かれるようになった。
リュウが私にとっての広い世界への接点となった。
彼がいつも言っていたことを思い出していた。
「本当に信じられることは自分の目で見たことだけだ」と。
いつも強い意志を持ってどこから見ても迷いのないように見えた。
羨ましくてリュウのようになりたいと願いながら、絶対にそうはなれない自分をいつも感じていた。
彼がこんな風に弱音をはくことを想像したことは一度もなかった。
どんな風にも想像できそうになかった。
目の前にいるリュウを見ても何だか信じられなかった。
 
いったい彼に何があったんだろうと彼の姿を見ながらぼんやりと考えていた。
こんなリュウを見ることになるのなら、来なければよかったのかと瞬間的に思ってから、
ふっと執行さんの歯切れの悪かった態度を思い出していた。
執行さんは分かっていた。リュウに何があって日本に帰って来たのか。
なのに帰ってきたことしか香織には伝えなかった。
それはきっとこんな風に香織とリュウを引き合わせる為だったと彼女は確信していた。
でなければ、執行さんはすべてを語ってくれたはずだから、あえて黙っていたことには何かの意味がちゃんとある。
とりあえず香織は話をそらして見ることにして、さっき、リュウが行っていた事を口にした。

「そういえば、執行さんの話してたよね」
「あ、ああ。今日の新聞の隅に聖和グループの代表交代の件が出ていたんだ。執行さんの顔写真が載ってた。執行は母方の姓だったらしい」
「あの、聖和グループ、ああ、だから、そっか」

香織はその事実に妙に納得していた。
執行の事は分からないことだらけだった。
どんな仕事をしているのか、家族は、とか、住まいはなんてそんなことをみじんも感じさせない空気があった。
でも立ち居振る舞いは洗練されていたし、何カ国語も難なく操る姿はとても普通に育った人とは思えなかった。
だけど、それは時にネガティブでもあり何とも言えない陰のある雰囲気を持っている人だというイメージがいつもつきまとっていた。

「私生児だったみたいだな。会社の窮地にひっぱられたんだな」

リュウはその言葉を噛みしめるように自分を納得させるかのように口にした。
その瞬間に香織は根拠のない思いを抱いていた。
執行はきっと随分前からリュウの居所も状況もきっと知っていたに違いない。
でも、私には黙ってたんだ。
私が迷わないように、リュウを振り切って普通に幸せになれるように。
そして執行さんはこっそりリュウを支えて行くつもりだった。
私たちにも同じようにしてくれたように。
だけど、事情が変わった。
立場が変わって、執行さんを取り巻く環境が変わって何もできなくなることが分かっていたんだ。
だから、あの日、私がいる場所に現れた。
遠くへ行くと行ったのは、物理的な距離の事じゃなかったんだ、とそのときぼんやり不思議に思った事の輪郭が見えるようなそんな気がしていた。

だけど執行さん、今の私に何ができるんだろう。
私だって壁にぶつかって立ち向かえないでいるのに、こんなリュウに対して、一体、何をしてあげられるのか、分からないよ。
ずるいな、と少し感じていた。
何かヒントでもくれたら、状況を少しでも説明してくれていたら、もっと違うアプローチだって出来たのにとなんとなく思っていた。
 
「今日は帰るよ。突然、押しかけてごめん」
 
と香織は席を立った。少し考える時間が必要だし、もう少しリュウに何があったのかを知る必要があると思ったからだった。

「そっか、俺もしばらく日本にいるから」
「ありがとう。いつも貴方の入れてくれるコーヒーが一番おいしかったよ」

と香織は告げると、踵を返して振り返らずに部屋を出て行こうとした。
出て行こうとしてから、一度、振り返ると、

「これ、返せないまま、だったから、いつか、返さなきゃって、ずっと思っていたから」

と言いマンションの鍵を差し出した。
今である必要があったのかと問われたら、正しいタイミングだったのかと問われたら香織も答えを持っていなかった。
リュウが鍵を取ろうとした時、彼の手がふっと香織に触れた。
香織の中にぼんやりあった思いが溢れだしそうになり、一瞬、目を伏せた。
そうすることでしか、今の自分の感情を、傷ついているリュウをそのまま抱きしめてあげたいという思いを押し殺すことができそうになかった。
自分はあの時に自らの意思で今を選んだのだから。

「さよなら」

香織はようやくそれだけ口にすると部屋を飛び出した。
それが限界だった。リュウはその場に立ち尽くし、香織が出て行ったドアを見ていた。

俺、香織にひどいこと言ったよな。
傷つけたいとなんて思ってないけど、あまりに突然すぎて、どうしていいか分かんなかったんだ。
執行さん、どうして香織に声をかけたんだ。
あの時、きちんと約束したのにとやりきれない思いで香織から受け取った鍵を握りしめていた。

竜海は数年前、それを執行にお願いしたときのことを思い出していた。
香織が自分を探していても知らないふりをしてほしいと、香織が前を見て進んでいけるように、
自分に捕らわれずに生きていけるように、知らない振りをしてほしいと。
なのに、最後に約束破ったんだな。なんでなんだよ。

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2004.09.17 Fri
第一章 帰国-3
散々と迷った挙句に香織はとりあえず、竜海に会ってみようと思い、通いなれた道を風景を確かめるようにゆっくりと歩いていた。
会ってどうしたいのか、何を話したいのか、リュウが代わっていたらどうするのか、そんなことを考えながら、周りの景色に目を映す。変わった建物もある、全体的な街のイメージはだいぶ変わってしまっていた。
それでもあのマンションへ向かう広い道路は同じようにそこに存在していた。
エントランスで部屋番号を押すのにしばらく躊躇していた。勢いでここまで来たものの、本当に竜海にあってどうしたらいいのかなんて分からずにいた。
香織はジャケットのポケットに手を突っ込んで鍵を握り締めた。まさか、これを使うことになろうとは思わなかった。自分にとってその鍵はお守りと一緒だった。
使うつもりはまったくなかったけれど、この鍵がリュウと繋がっている唯一のものに思えてどうしても捨てることも返すこともできなかった。

「香織、か?」

不意に発せられた声に香織は恐る恐る振り返った。
そこにはあんなにも会いたいと思ったリュウが松葉杖をついてバランス悪く立っていた。
変わり果てた竜海の姿に香織は言葉を失い、虚ろな眼差しで竜海を見ていた。
案外に冷静だった竜海が切り出した。

「どうしたんだ、香織」
「執行さんに聞いたから、帰ってきてるって」

バツ悪そうに香織はようやく言葉を吐き出していた。

「執行さんか、新聞、読んだか、今日の」

竜海は何事もなかったようにオートロックのキーを入り口のパネルに差し込み香織を促して建物の中に入っていこうとしていた。

「新聞?今日は休みだったし、軽くしか目をとおしてないよ」
「そっか、ようやく俺もあの人が分かったよ」

竜海の意味深な言葉にその続きを聞きたい気もしたけれど、今は執行さんの素性よりも竜海の怪我の理由を、何だか鈍って見える瞳の理由を聞きたかった。
香織の気持ちを察したのか竜海はそれ以上、執行の話をしようとしなかった。エレベーターに乗り込んだ二人は閉ざされた空間の沈黙の緊張感に所在なさげに到着階が表示されるパネルに視線を移していた。
ほんの数階分の僅かな時間が果てしなく長く感じられる瞬間だった。
「相変わらずだな。すぐ分かったよ」

竜海はエレベーターから比較的、解放された廊下という空間に出てきてようやく再度、言葉を発していた。

「あれから5年もたったのよ。変わらないわけないじゃい」

香織は戸惑いながらも言葉をつないだ。変わりたくないとずっと思っていた。変わらなきゃとも思っていた。だけど、変わったのは見かけだけのような気がしてそれを指摘されるのも辛かった。

「それでも香織は香織だよ」

竜海はさりげなく言葉にしていた。

「それと、ニュース、見たよ、かなったんだな、夢」
「そう、ね」

香織は歯切れのよい答えを用意できないでいた。
ここまできてやっと、この程度の結果しか出せなかったということを竜海には伝えられずにいた。
あの時の思いは今も変わっていないと思っているけれど、思いだけでは先に進めないことをこの数年ずっと感じながら過ごしてきた。
 懐かしい部屋に竜海が招きいれてくれた。空気もそこにある家具もほとんど変わりなく、美鈴さんのセンスに基づいた機能的で心地のよい空間が向かえてくれてると香織は感じていた。

「そこに座ってて」
「ありがとう」

竜海はキッチンカウンターの席を香織に勧めると対面式のキッチンの奥へ行き、手馴れた手でコーヒーを入れ始めた。凝り性の竜海は必ずそのたびごとに豆をひいてコーヒーを入れる。部屋がコーヒーの香りで満たされる。
この部屋で何度もこんな時間を持ったことを香織は回想していた。竜海と二人だったり、美鈴さんと三人だったり、仲間とたくさんだったり、この部屋で過ごしたいろいろな思いでは今も色あせず香織の心の重要な部分を占めていた。
香織はふらっと周りを見渡し、テレビの上の写真立てに目を留めた。そこにはあの頃の私たちがいた。
リュウがいて、湊がいて、北山がいて、佐和子と、執行さん。そして私がいた、あの頃がそこにあった。
若くてまっすぐで、パワーだけが売り物で、それから無鉄砲で、好奇心ばかり旺盛で、そしてどんな夢でも信じられた。何にでもなれる気がした。

 20:57:10   comment:0   trackback:0   [Works-Voice(小説)]
2004.09.16 Thu
第一章 帰国-2
ほろ酔い気分で部屋に入ると、留守番電話の赤いランプが点滅しているのが香織の目に入った。
携帯電話が普及した今ではあまりの自宅の電話にかけてくる友人もいない。特に不規則な時間帯で仕事をしている自分を知っていることもあって、携帯電話に電話をかけられない場所、そう征樹だろうということは容易に想像がついた。

香織はすぐに留守番の内容を聞かずにそのままバスルームに向かった。
何の話かはもういやと言うほど分かっている。
今は何も答えられないから、と思いながら香織はバスルームに飛び込んだ。

征樹、ごめん。リュウが帰ってきた今だけ、少しだけ、リュウのことを考えさせて。
あの時、空港で別れてから何年たったんだろう。もう、10年近くになるんだ。
待っているとも、ついていくとも言えなかった。でも、気になって気になって仕方なかった。何処で何をしているのか、どんな風に生きているのか、あの時のままか、と。

執行さんから見せてもらった海外の雑誌に載っていた彼の写真を見たことがあった。
私が始めてみたリュウの撮ったあの写真と同じ匂いがした。変わらないでいてくれることが、励みになった。
でも、なかなか前に進めない自分への苛立ちにもつながった。

あのメンバーで同じ方向を目指して、それぞれが自分の道を見つけようといろいろな方面に進んでいった。
だからといって全員が夢をかなえたわけじゃない。
夢は夢で終わってしまう場合もある。
そんな私たちにとってリュウの存在が羨ましかった。

リュウに負けないというより、恥ずかしくない自分でいたいとずっと思っていた。
がんばれたのはそれがあったからだと思っていた。
だけど、もしリュウにあわなかったら少し違った人生を送ったのかもしれないと何度も考えた。普通にOLになって、普通に結婚して、子供なんか、いたりしてと何度も考えし、征樹に言われたこともある。

だけど今も踏ん切りがつかないでいる。
まだ、私も何かになれるとどこかで信じたいという思う気持ちにけりをつけられずにいた。
そんな風に香織は思いをめぐらせながらぼんやりシャワーを浴びていたが、再度、電話が鳴って現実に引き戻されていた。何度かコールが鳴る。

あわててバスルームを出ようとドアを開けてから、躊躇して閉めなおした。
多分、征樹だから、後でゆっくりでいい。
だって、今は征樹の思いには答えられない。

思い直して香織はもう一度、頭からシャワーを浴びて思いを振り払おうとしていた。

 14:17:25   comment:0   trackback:0   [Works-Voice(小説)]
2004.09.14 Tue
第1章 帰国-1
 香織はよく一人になりたい時に行くバーのカウンターに座ってシャンパンを開けていた。初めてニュースを読んだお祝いにとマスターが準備してくれたものだった。正直に言えば、祝うべきかどうかを迷っていた。自分の気持ちがどこにあるにせよ、やさしいマスターの好意に今は甘えようと思えた。

「おめでとう、香織ちゃん」
「ありがとう、マスター」

香織はすぐにグラスに口をつけずしばらくシャンパンの泡がグラスの下から浮き上がってはじけるのを見ていた。やっとここまで来たよ、リュウ。貴方はいま、どこで、何をしているの?

「香織ちゃん、お客さんだよ」

マスターの声に促されてバーの入り口が見えるよう振り返ると執行がゆっくりとカウンターに向かってくるのが見えた。ためらいもなく香織の隣に腰を下ろした執行に向かって香織が口を開いた。

「執行さん、どうして、ここへ?」
「今日はここにいると思ったから、おめでとう。念願のニュースが読めたね」
「ありがとうございます。ピンチヒッターでやっとです」

香織は無理矢理にでも笑って見せようとした。自分が感じている自分の才能への限界を執行には感じ取られたくなかった。これが最初で最後かもしれないという自分の焦燥感をできることなら隠しておきたいと思っていた。

「堂々としてたよ。マスター、僕にももらえる、そのシャンパン」
「お祝いですからね、ちょっと待ってください」

マスターは手際よく綺麗に磨き抜かれたたグラスを執行の前に置きシャンペンをそそいだ。

「おめでとう、香織さん」

執行が軽くグラスを上げたので、香織はグラスを合わせた。ガラスの触れ合う音は店内の雑音の中に埋もれていた。

「香織さん、今日は別の用件で貴方を探していたんだ」
「別の用件?」

香織は息を呑んだ。香織と執行との接点はいまや1つしかない。香織がずっと執行に頼んできたことは、リュウの行方を突き止めること。

「リュウが帰ってきました」
「日本に帰ってきた?生きてたのね」

香織は自分でも少し信じられないような大きな声を出していた。多分、どこかで生きているに違いないと思っていた。音信不通になってから5年、きっとどこかで元気にしていると信じるしかなかった。待っているとも、ついていくとも言わなかった香織にほかにできることはなかった。

「生きてはいますよ。ただ」
「ただ?」
「僕の口から言うべきことじゃないかもしれない」
「執行さん?」
「僕も正直、迷ってます。香織さんにどんな風に真実を伝えればいいのか」

執行はグラスを置き無意識にカウンターテーブルの上に置かれた自分の手を握り締めた。肩が緊張していた。

「とりあえず、生きてたのならそれでいいんです」

香織は言葉を絞り出した。本当なら今日、ここで一緒に祝ってほしいと思っていたのは竜海だった。彼がいないなら一人で祝おう、とそんな風に感じていた。

「香織さん、力になれなくて、申し訳ない」
「いえいえ、執行さんにはずっとお世話になりっぱなしじゃないですか、あの時から」
「そんなことはないですよ。私もみなさんと一緒にいるのが楽しかった。でも、しばらく、日本を空けることになりました」
「え?どこへ?」
「いまの段階でははっきりいえないのですが、当分、お会いできないと思います」

執行は淡々と事務的に伝えた。香織も他の仲間も執行がいったい何者なのかを知らなかった。それでも、よかった。執行は香織や竜海たちにとって大人の世界を垣間見せてくれる貴重な存在であり、絶大な影響力を持ったカリスマ的存在だった。

「それは残念です。執行さんから聞く話はどれもとっても楽しかったのに」

執行は本当のことを香織には伝えられなかった。竜海が何に傷ついて、何に苦しんだかを理解していたのは執行だった。もし、もう少し時間があるのであれば自分が何とかできたかもしれない。執行には時間がなかった。
これを香織に託していくのは卑怯かもしれないと執行は分かっていて、それでも他に方法を思いつかなかった。

「執行さんって本当に不思議な人ね」
「香織さんほどじゃあ、ないですよ」

執行は笑ってごまかした。執行にとって扱いづらかったのが香織だった。直感的に何かを感じ取るその感覚にいつもドキッとしていた。女性特有の感と言ってしまえばそれまでだが、そんな曖昧な彼女の直感から、いつ本当のことを彼らが知ってしまうだろうか、と不安に感じたが、それも、今日で終わる、明日、彼らも本当のことを知る。
執行はシャンパンを飲み干した。これが偶然でなくてなんだろう。竜海の帰国、香織の環境の変化、そして自分は遠くに行く。何かが動き出すときが来たのかもしれない。

「今日は、時間は大丈夫なんですか?」
「ああ、時間あるよ」

 香織はほっと笑みをこぼした。香織にはリュウの話を一人で消化できる自信がなかったリュウと自分のことを知っている執行ともう少し話をしていたかった。執行にとってもその思いは一緒だった。

 15:15:54   comment:0   trackback:0   [Works-Voice(小説)]
2004.07.08 Thu
Voice-プロローグ
プロローグ




竜海はペンを走らせながら明日からのことをぼんやりと思い浮かべていた。
最後までセイラは嫌がっていたが、ここに一人取り残されて親戚を転々とするような暮らしよりは母親と一緒に暮らさせたいというジョージの遺言どおりに彼女を母親の元へと彼女を送り届けるため日本へ一時帰国する準備をすべて整えていた。
母親には逢ったことはなかったがジョージの言葉と、電話での印象からずいぶんとしっかりした女性であることはイメージできた。
 生まれて初めて住み慣れた国を出ようとしているセイラはこれから起こることへの不安からか、ちっとも落ち着く様子はなく、無理やりベッドに横にならせてからも何度も寝返りをうち、寝つかれない様子だった。竜海もそれには気づいていたが、国を出る前に仕上げる予定の原稿で手一杯で、しばらくは見てみぬ振りをしていた。

「リュウ、眠らないの?」

セイラはベッドから小さな身体をゆっくり起こしながら竜海の背中に声をかけた。竜海はデスクから視線をベッドに移すとセイラの目を見て諭すように言った。

「セイラ、ちゃんと眠らなくちゃだめだっていったろ」
「だって、眠れないんだもん」

セイラは駄々をこねるように言った。竜海はペンを置き椅子を引いてたちあがるとセイラのベッドに腰をかけ、小さな両肩に手を置いて、セイラに言い聞かせた。

「何度も言ったけど、明日は長旅になる。国を出るまでは何があるか分からないし、ちゃんと眠っておこうって話したよな」
「わかってる。わかってるけど」

竜海にはセイラの不安は手に取るように感じられた。父親が死んだときも、その現実感のなさからか、毅然と前を見ていた彼女だったがさすがに故郷を離れることには抵抗があるようだった。
『平和な国に行こう』と言ったものの彼女のように物心ついたときから戦渦に巻き込まれた子供にはリアルなイメージが沸きにくいこともわかっていた。

「わかった、セイラ、俺も寝るから、一緒に寝よう」
「ん、リュウ、手、握っててね」
「わかったよ」

竜海は諦めてセイラのベッドに寄り添うように横たわった。
目を閉じるセイラの柔らかい髪を撫でながら、セイラが眠ったらまたペンを走らせればいいと思っていたが、セイラは小さな手でしっかりと竜海の手を握って離そうとはしなかった。
ジョージが死んでから、どんな時もセイラは俺から離れようとしなかった。竜海の洋服をしっかり握って大きな背中にすっぽりと隠れるように。
引き取りに親戚たちも半ばあきらめてセイラの好きなようにさせたいと言っていた。

 お世辞にも綺麗とは言えない安ホテルの硬いベッドは嫌でもあの日を思い出させる。
ジョージ、何にも守るべきものがない俺なんかのために命を落として、俺はセイラに恨まれた方が楽だったよ、お前の代わりなんてできないと分かっているんだ。
親父をなくしたセイラが俺になつくのはわかるけど、もう、苦しいんだ、ジョージ。だから楽になってもいいよな。

 竜海は薄ぼやけた天井を見ていた。日本を出てからの数々のことや、この国に来てからの数々の出来事が走馬灯のように溢れ出し、瞳を閉じたものの眠れる感じがしなかった。しばらくぼんやりしていた竜海がようやく浅い眠りに落ちたころ、部屋の外から聞こえた大きな爆発音に飛び起きた。

まさか、こんなところまでという思いが竜海の脳裏をよぎった。竜海が窓に近づいて、カーテンを寄せて窓越しに広がる鈍いオレンジ色の光とそれを包みこむような濃い煙が見えた。
竜海は慌ててセイラをたたき起こそうとした。

「セイラ、セイラ、起きるんだ」
「・・ん、なに、どうしたの」
「セイラ、起きるんだ」

竜海はセイラゆり動かし目を覚まそうとした。
セイラは何が起こっているのかわからない様子で、目をこすって竜海を見た。

「セイラ、ここは危険だ、逃げるぞ」
「え、何?どうしたの」

セイラは全く状況がつかめていなかった。
この国にいればこの程度の爆音も状況も珍しいことではない。竜海は嫌な予感がして仕方なかった。
明日になればこの国から出て行けるのにという気持ちが余計に竜海の恐怖心を育てていたのかもしれない。
彼は荷物をまとめたディパックを背負うと、セイラに乱暴にコートを着せて部屋から連れ出した。心なしか爆音が近づいて来ているような気がしていた。
ホテルのエントランスを出ると目の前に見える風景は豹変していた。
昨日までの風景はあとかたもなく煙と炎に包まれていた。竜海はどこへ逃げたらいいのかもわからず、セイラの手を強く握って走り出した。
こんなことがあっていいのか。明日になれば安全なところに逃げられるのに、こんなときになってなぜ。嫌な思いが何度も竜海の頭を横切った。
それでも戸惑っている暇は二人にはなかった。竜海はセイラの手を強引に引っ張って近づく砲弾の雨から逃げようとただ走っていた。

「リュウ、いたい、苦しい」

竜海が気づかないうちに手を強く握りしめすぎていたことにセイラが抗議した。
それでも竜海はセイラの手を離すわけには行かなかった。

「セイラ、もう少しだから、我慢して走ってくれ」
「リュウ・・・。」
「頼む、セイラ」

竜海はセイラにもう少しといいながらどこまで走れば安全か自分でもさっぱりわかっていなかった。ただ今は走るしかない。熱くて、苦しかった。
どこまでもどこまでも煙と炎に追いかけられる感じがした。
俺はただ命惜しさに走っている。
仕事も使命も何もかも投げ出して走っている。
こんなところまでいったい俺は何をしにここまで来たんだ、竜海はそんな無力感と現実の狭間を行ったり来たりしながら走っていた。さらに大きな音が竜海の耳に届いたと、ほぼ同時に地面が大きく揺れて、彼らの体は宙に放り出された。

一瞬のうちに何が起こったのか彼にもセイラにも理解できなかった。
どれくらい時がたったのかも分からないくらい長い間、竜海はぬかるんだ地面に横たわっていた。
強く地面に打ちつけられたらしく、意識が戻ると身体中に鈍い痛みが感じられた。さっきまで強く手を握っていたはずのセイラの姿は見当たらなかった。薄れそうな意識の中、自由の聞かない身体を無理やり地面から起こし、目を凝らしてあたりを何度も見回しながら、最後の気力を振り絞って叫んでいた。

「セイラ!!」

竜海の心のそこから絞り出したような叫びは今にも落ちてきそうな灰色の空に虚しく響くだけだった。

「竜海、竜海、大丈夫?」

聞きなれた意志の強い声に呼び戻されて竜海は悪夢から呼び戻され、身体の自由が利かない現実と右足を襲う鈍い痛みを感じていた。

そうか、そうだ。ここは戦場じゃない。セイラは死んでしまったし、俺はこうして日本へ帰ってきて柔らかいベッドに横たわっている。

「ずいぶんうなされていたわよ、大丈夫?」
「ああ」

竜海の姉、美鈴は手に持っていたタオルを彼に投げてよこし、あまり光も通さない部屋のカーテンを開けて見せた。朝の柔らかい日差しすら今の彼には眩しすぎて目を反らすことしかできなかった。

「夢を、見ていたんだ」

竜海は美鈴からもらったタオルで寝汗を拭きながら、重い口調で言葉を吐き出した。

「そう。私は出かけるけど、ちゃんと病院には行きなさいよ」
「ああ」

美鈴はそう言い残すと、部屋を出て行った。彼女としても以前にもまして無口になった弟に対して敢えて何かを聞かなければとは思わなかった。
きっと話したくなれば話すだろうと思っていたこと、母親が死んだ時でさえ帰ってこようともしなかった竜海が傷だらけで帰ってきたこと、それ自体に意味があると思えたからだった。
しばらくはそっとしておこうというのが美鈴の気持ちだった。
美鈴が部屋をあとにしてから竜海はもう一度眠りにつこうとベッドに体を横たえた。
瞳を無理矢理に閉じようとしても、光に背を向けて体を丸めても眠りにつくことはできなかった。彼は仕方なくベッドから身を起こした。旅立つ前となんら変わらない自分の部屋にいると外国で過ごしてきた時間と今が切り離されて存在しているような変な感覚に襲われた。あの場所に立っていた自分がまるで嘘のような気がする。

竜海は怪我をした右足を引きずりながら自分の部屋からリビングへ出ていった。ちょうど、美鈴が読みかけの新聞が広がっていたのを拾い上げた。
なんてつまらない記事ばかりなんだ。
この国はどうかしている。
みんなどうかしている。
世界中に苦しんでいる人も、困っている人も数え切れないほどいるのに、この国はまるでおとぎ話のなかにいるかのように平和だ。
不気味なくらい静かで平穏だ。
問題になっていることだって本当に些細で取るに足らない出来事ばかりだ。もう俺にはわからないよ。どれが本物で、どれが偽りなのか。俺が命を掛けてまでしようとしていたことの意味はなんだったんだ。

竜海は新聞を乱雑に放り出すとテレビの上に置かれている写真立てに目を移した。
目に飛び込んできた風景はあの頃のままだった。俺がいて、執行さんがいて、湊がいて、北山がいて、そして香織がいた。

「なあ、香織、おれ、帰ってきたんだぜ」

竜海は写真に向かってつぶやいた。
若かった自分と仲間を見て感傷的になりそうな自分が嫌で目を反らした。
所在のなさを感じながらも竜海はおもむろにテレビのスイッチを押した。静か過ぎる一人の空間が絶えられそうになかったからだった。

「・・・香織」

映し出された映像にははつい先日まで自分がいたあの戦禍の風景と誰よりも愛したはずの女がいて、淡々と平和条約締結のニュースを伝えていた。

竜海はどうしていいのかわからず、テレビに映し出されたすべてを呆然と立ち尽くしながら見ることしかできなかった。

 11:12:35   comment:0   trackback:0   [Works-Voice(小説)]
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